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愛媛県


いよまつやまじょう


連立式天守
伊予松山城 (愛媛県松山市丸之内)
天守:現存天守(重要文化財)  日本100名城
戦国期の主な歴史
1602年 加藤嘉明によって築城が始まる。
1603年 加藤嘉明、「勝山」を「松山」と改名する。
1627年 加藤嘉明、完成前に会津へ加増転封となり、蒲生家が入る。
(メモ)
天守は一度焼失しており、現在の大天守は江戸末期に再建されたもの。大天守と小天守、そして3棟の渡櫓で形成された連立式天守で大天守以外は復元。しかし、木造でしっかりと復元されており見応えは充分。他にも重要文化財に指定されている建造物は多数。
天守(重要文化財) 連立式天守の内側 太鼓櫓(復元)
戸無門(重要文化財) 筒井門(復元) 加藤嘉明像(ロープウェイ乗り場近く)


伝加藤嘉明所用 
漆塗佛胴六間草摺素懸威具足


松山城天守閣


<見れた展示物>

伝 加藤嘉明所用 漆塗佛胴六間草摺素懸威具足
 賤ヶ岳七本槍のひとり・加藤嘉明が所用したと伝わる具足。



ゆづきじょう


大手

土塁
湯築城 (愛媛県松山市道後公園)
天守:なし  日本100名城
戦国期の主な歴史
1335年ごろ 伊予守護・河野通盛により築城されたといわれる。
1584年 河野通直、長宗我部元親に降伏。
1585年 四国征伐。通直、小早川隆景に降伏。
1587年 福島正則が入るが、居城移転のため廃城。
1602年 建材が松山城で再利用される。
(メモ)
道後公園として整備され、土塁、堀などの遺構もしっかりしている。しかし、名前からも分かるように、すぐ近くの道後温泉がある。



うわじまじょう


独立式層塔型 1671年竣工

天守から宇和島港を望む
宇和島城 (愛媛県宇和島市丸之内)
天守:現存天守(重要文化財)  日本100名城
戦国期の主な歴史
941年  藤原純友の乱の鎮圧に貢献した橘遠保がこの地を与えられ砦を築く。
1203年 西園寺公経が伊予国の知行国主となる。
室町末期 西園寺公広により開発が進む。
    大友氏などの侵攻に備え遠保が築いた砦を改修、板島丸串城と呼ばれる。
1584年 長宗我部元親の侵攻により公広降伏。
1585年 公広、豊臣秀吉四国征伐に降伏。
    公広、伊予を与えられた小早川隆景に属する。
1587年 隆景、筑前国に移封。戸田勝隆が入封。
1594年 勝隆死去。戸田氏、無嗣断絶。
1595年 藤堂高虎が7万石で入封。板島を宇和島と改める。
1596年 高虎により近世城郭への築城が始まる。
1601年 高虎、完成を見届けたのち今治に移る。
1608年 高虎、伊勢、伊賀に転封。富田信高、10万石で入封。
1613年 信高改易。
1614年 伊達政宗の庶子・秀宗が10万石で入封。
(メモ)
高虎が築城した当時、天守は望楼型だったが、伊達家によって層塔型に改修された。
宇和島城と呼ばれるようになったのは伊達秀宗の入城後のことである。
幕末には、四賢侯のひとり・伊達宗城を輩出した。
天守と石垣 一の門跡 上り立ち門


伊達博物館 (愛媛県宇和島市御殿町) 宇和島城のすぐちかくにある。


<見れた展示物> 
紹介している展示物は常に見れるとは限りません。

伝 伊達政宗所用 金茶糸威五枚胴具足
 伊達政宗所用と伝わる具足で、仙台市博物館が所蔵する黒漆塗五枚胴具足との共通点が多くみられる。

伝 伊達秀宗所用 紫糸威二枚胴具足
 伊達政宗の庶子で伊達宇和島初代藩主・秀宗の所用と伝わる具足。